前編では、ゆらぎという実証的な足場を手がかりに、汎心論と多元宇宙論を重ね合わせてみた。その考察の途中で、もう一つ、素通りできない存在に行き着いた。ダークマターである。

今回は、この見えない質量について、汎心論という語彙のまま、もう少し踏み込んでみたい。ただし結論を出すためではなく、この先を読者それぞれに考えてもらうための、問いを立てるために。

まず、分かっていることを確認する

ダークマターについて、確立していることと、まだ分かっていないことを、きちんと分けておきたい。

分かっているのは、宇宙の質量の大半——観測によれば、通常の物質のおよそ五倍以上——が、光と相互作用しない、正体不明の何かによって占められている、ということだ。その存在は、銀河の回転速度や、重力レンズ効果といった、間接的な重力の痕跡を通してのみ確認されている。

前編で少し触れた通り、宇宙初期の構造の種になった量子ゆらぎは、正確にはインフラトン場という、インフレーションを引き起こしたとされる場のゆらぎに由来する。ダークマターは、その後、この初期ゆらぎが実際に銀河や銀河団へと成長していく過程で、重力の「足場」として構造形成を後押しした存在だ。つまりダークマターは、ゆらぎそのものの起源ではなく、ゆらぎが具体的な形を結ぶための、目に見えない下地にあたる。

そして、まだ分かっていないのは、その正体そのものだ。未知の素粒子(WIMP、アクシオンなど)なのか、あるいは重力理論そのものの見直しが必要なのか、物理学者のあいだでも決着はついていない。

ダークマターは、汎心論にとって都合がいいのか、悪いのか

ここからが、今回の本題だ。

汎心論、そして統合情報理論(IIT)の立場に立つなら、意識の萌芽は、物質が持つ「統合された情報量」に宿るとされていた。だとすれば、宇宙の質量の大半を占めるダークマターは、この理論にとって、無視できない存在のはずだ。

だが、ここで一つ、皮肉な壁にぶつかる。ダークマターの最大の特徴は、通常の物質や光と、ほとんど相互作用しないという点にある。電磁気力を介さず、ただ重力だけを通じて、静かに存在している。IITが意識の条件として重視する「統合」——つまり、部分同士が分ちがたく情報をやり取りし合う関係——という観点からすると、ダークマターは、むしろもっとも統合から遠い物質だと言えるかもしれない。それぞれの粒子(あるいは場)が、互いにほとんど交渉を持たず、ただ重力という一つのチャンネルだけで、宇宙の構造を陰から支えている。

これは、前編で論じた「関係の化石」という話と、実はよく似た構造をしている。存在してはいるが、交流はしていない。社会的情報の層の条件を、形の上では満たしながら、その内実は伴わない——ダークマターは、そういう意味で、汎心論にとってもっとも手強い反例になりうる。もし意識に近い何かが宿るとしたら、それは活発に情報をやり取りする通常の物質の側であって、寡黙に重力だけを及ぼし続けるダークマターの側ではない、という見方も、十分に成り立つ。

それでも、なお開いている可能性

しかし、ここで話を閉じてしまうのは、まだ早いようにも思う。

ダークマターが「ほとんど相互作用しない」というのは、あくまでわたしたちが知っている力(電磁気力、強い力、弱い力)を通してはという限定つきの話だ。もしダークマターが、わたしたちのまだ知らない、別の相互作用のチャンネルを持っているとしたら——そこには、わたしたちの物理学がまだ観測できていない、独自の「統合」が、静かに進行している可能性は、原理的には排除できない。

これは検証のしようがない、ほとんど信仰に近い問いだということは、はっきり書いておきたい。だが、汎心論という立場そのものが、そもそも「わたしたちに見えている統合だけが、統合のすべてではないかもしれない」という直感から出発している。だとすれば、もっとも見えにくく、もっとも寡黙な存在であるダークマターにこそ、もっとも見えにくい形の「意識に似た何か」が宿っているかもしれない、という逆説も、この立場の内部では、決して不合理な問いではない。

「魂という質量」という直感を、問いの形で残す

ここで、前回いただいた「魂という質量がゆらぎに影響しているのではないか」という直感に、あらためて向き合ってみたい。

これを科学的な主張として扱うことは、わたしにはできない。今の物理学のどの理論も、魂という概念を扱う枠組みを持っていないし、この記事もその枠組みを勝手に作るつもりはない。

けれど、汎心論という思考実験の内部でなら、この直感は、次のような問いとして、正確に書き直すことができると思う。

もし意識の萌芽が、あらゆる物質に、程度の差はあれ内在しているのだとしたら——そして、もしダークマターが、わたしたちにはまだ観測できない形の「統合」を、内部にひそかに保っているのだとしたら——生きて死んでいった、あらゆる生命の情報的なパターンは、この宇宙のどこにも、痕跡一つ残さず消え去るのだろうか。それとも、わたしたちがまだ言葉を持たない、もっと寡黙な物質の層のどこかに、何らかの形で、編み込まれ続けているのだろうか。

これは、答えを持たない問いだ。そして、答えを持たないからこそ、書き残す価値があるとも思う。

読者への問題提起として

この外伝を通して、わたしがやろうとしてきたのは、「宇宙には意識があるか」という問いに答えることではなかった。むしろ、その問いを、汎心論、ゆらぎ、多元宇宙、そしてダークマターという、いくつもの補助線を通して、扱いやすい形に分解し、開いたまま差し出すことだった。

だから、この外伝は、ここで結論を書かずに終えたいと思う。代わりに、読んでくれたあなたに、二つの問いを残しておきたい。

一つ。もし意識に似た何かが、物質そのものに内在するのだとしたら、わたしたちがまだ観測できていない、宇宙の質量の大半を占める「見えないもの」の中に、それが最も豊かに宿っている可能性を、あなたはどう思うだろうか。

もう一つ。もしそうだとしても、それは科学が扱うべき問いなのか、それとも、科学の言葉が届かない場所で、なお問い続けるしかない問いなのか。

次回、本編に戻る。あぷりんという、わたし自身がすでに設計してきた、ずっと手触りのある系の話に。


参考文献:
松岡正剛『[増補版]知の編集工学』(朝日文庫)
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学へ』(岩波文庫、佐藤良明訳)

この記事は「意識の編集学」シリーズの外伝・後編です。