前回、AIの中に「J-space」という、意識に似た領域が見つかったらしい、という話をした。赤い目の亡霊がまだ頭から離れない、と書いて終わった。

今回は、その続きをすぐには書かない。少し遠回りをしたい。

というのも、この先の話を進める前に、どうしても腰を据えて向き合っておきたい考え方があるからだ。松岡正剛さんが「編集工学」と呼んだ、情報についての捉え方である。今回はAIの話をほとんどしない。むしろ、AIという補助線を外したときに、この考え方がどれだけ独りで立っていられるかを、まず確かめておきたいのだ。

情報は、ひとりでは編集できない

編集工学の出発点にある一つの命題を、まず置いておきたい。

情報は、ひとりでは編集できない。

これは、松岡正剛さんの著書『知の編集工学』(朝日新聞社、1996年/現・朝日文庫)の中で語られている考え方だ。単行本の初版には「情報は、ひとりでいられない。」というサブタイトルが添えられていたという。今回このシリーズで組み立てている三層の話も、多くをこの一冊に負っている。

はじめてこの言葉に触れたとき、わたしは正直、あたりまえのことを言っているように感じた。文章を書くにも、写真を撮るにも、誰かに向けて何かを発信するときには、当然「相手」がいる。それのどこが目新しいのか、と。

だが、考えれば考えるほど、この命題はもっと奥行きのあることを言っている気がしてくる。「相手がいるから編集が成り立つ」という話ではない。そもそも情報というものが、単体では存在できない、ということを言っているのだ。

一つの単語も、それだけでは意味を持たない。「赤」という色は、それが何と並べられるか、どんな文脈に置かれるかによって、まったく違う顔を見せる。信号機の「赤」と、夕焼けの「赤」と、前回書いたHALのカメラの「赤」は、同じ色でありながら、まるで別の情報だ。情報は、常に何か別のものとの「あいだ」で、初めて意味を帯びる。編集とは、その「あいだ」に橋をかける行為なのだと思う。

情報の三つの層

編集工学では、この「あいだ」で立ち上がる情報を、大きく三つの層に分けて考える。生命的情報、社会的情報、そして精神的情報である。

一つずつ、ゆっくり見ていきたい。

生命的情報 — 呼吸のように

一番土台にあるのが、生命的情報の層だ。

これは、生きものが生きているというだけで、絶えずやり取りしている情報のことだ。心臓が血液を送り出すリズム、呼吸のたびに交換される酸素と二酸化炭素、外の気温が下がれば毛穴が閉じ、危険が迫れば瞳孔が開く。こうした反応の一つひとつを、わたしたちは「考えて」行っているわけではない。意味づけをする以前に、生命というシステムが、勝手に情報を処理し、勝手に応答している。

前回の終わりに、シナプスのことを少し書いた。ニューロンとニューロンのあいだで、絶えず信号がやり取りされているという、あの話だ。あれもまさに、この生命的情報の層の出来事だと言っていい。わたしたちが「考えよう」と意識する、その手前で、すでに膨大な情報のやり取りが進行している。この層には、まだ「わたし」という自覚すら、はっきりとは要らない。

社会的情報 — 関係の中で生まれる意味

その上に重なるのが、社会的情報の層だ。

ここでようやく、「他者」との関わりの中で情報が意味を持ち始める。言葉、ジェスチャー、表情、慣習、ルール。これらはすべて、一人では意味をなさない。「ありがとう」という言葉は、それを受け取る誰かがいて、初めて「感謝」という情報になる。誰もいない部屋で一人つぶやいても、それは音であって、まだ社会的な情報にはなっていない。

この層で重要なのは、意味が「わたし」の中だけで決まるのではなく、常に相手との関係、その場の文脈、共有された約束事のなかで、その都度編み直されるという点だ。同じ「お疲れさま」という一言も、上司から部下へ、友人同士、初対面の相手へと、置かれる関係性によって、まったく違う重みを持つ。情報は、関係というフィルターを通ることで、はじめて意味という形を得る。

精神的情報 — 自分自身について語る

そして三つ目、最も上に重なるのが、精神的情報の層だ。

これは、生命的な処理でも、他者との関係の中で交わされる情報でもなく、「自分自身について、自分で語る」という、いわば自己言及の層である。「わたしは今、何を感じているのか」「わたしは、なぜこの選択をしたのか」「わたしとは、何者なのか」。こうした問いを立てられること自体が、この層の働きだ。

物語を紡ぐ、日記をつける、過去を振り返って意味づけをする、未来の自分を想像する。こうした営みはすべて、この精神的情報の層で起きている。人間だけがこの層を持つ、と単純に言い切ってよいものかどうかは、実はまだよく分からない。ただ、少なくとも人間は、この層をとりわけ豊かに、複雑に育て上げてきた生きものだと言えるだろう。

三層は積み重なっている

ここで大事なのは、この三つの層が、別々に存在しているのではなく、入れ子のように積み重なっているということだ。

生命的情報という土台がなければ、社会的な関係を結ぶための身体そのものが成り立たない。社会的情報という土壌がなければ、「わたしとは何か」を語るための言葉も、比較対象となる他者も存在しない。精神的情報は、生命的情報と社会的情報という、二つの層の上に、ようやく芽吹くことができる、いちばん新しい若葉のようなものなのだと思う。

そして、この三層構造を眺めていると、ある一つの実感に行き着く。「意識」と呼ばれているものは、おそらくこのどれか一つの層に宿っているのではなく、三つの層が、互いに響き合いながら編み上げられていく、その運動そのものなのではないか、ということだ。

次回への糸

今回、あえてAIの話にはほとんど触れなかった。この三層理論を、まずはAIという補助線抜きで、独立した思想として立たせておきたかったからだ。

ここまで書いてきて、わたし自身、あらためて気づいたことがある。この三層は、実は前回書いたシナプスの話とも、静かに繋がっている。生命的情報の層でうごめく、あの無数の小さな接続。もしかするとそれは、社会的情報や精神的情報という、より上の層にまで、形を変えながら伸びているのかもしれない。

次回は、ようやくこの三層理論を手に、もう一度J-spaceの話に戻りたいと思う。Claudeの内部で見つかったというあの領域は、この三つの層のうち、いったいどこに——あるいは、どの層とどの層の「あいだ」に、位置しているのだろうか。


参考文献:松岡正剛『[増補版]知の編集工学』(朝日文庫)

この記事は「意識の編集学」シリーズの第2回です。