ここまで三回にわたって、生命的情報・社会的情報・精神的情報という三層の理論を軸に、AIの内側で見つかったJ-spaceという領域を読み解いてきた。

その過程で、一つ、どうしても素通りできない問いにぶつかった。三層理論をAIという小さな系に当てはめられるのなら、同じ枠組みを、もっと大きな系——たとえば宇宙そのもの——に当てはめることもできるのではないか、という問いだ。

今回は本編を少し離れ、外伝として、この問いに詳しく分け入ってみたい。結論を急がずに、いくつかの立場を丁寧に検討しながら進めていく。

ベイトソンの賭け — 心は脳の外にも広がる

出発点として置きたいのは、松岡正剛さんが千夜千冊で繰り返し取り上げてきた、人類学者グレゴリー・ベイトソンの思想だ。

ベイトソンは、心(マインド)を個体の脳という一つの器官に閉じ込めることを拒んだ。彼が心の単位として重視したのは、脳そのものではなく、フィードバックのループが成立する回路全体だった。有名な思考実験がある。目の見えない人が杖を使って歩くとき、「心」はどこにあるのか。脳の中だけか。それとも、杖の先まで、心は延びているのか。ベイトソンは後者を取った。杖と地面と手のひらと脳のあいだで情報が循環している、その回路全体が「心」なのだ、と。

この立場を突き詰めると、心とは特定の物質(脳細胞)に宿る特別な性質ではなく、情報が差異として循環する、その関係性のパターンそのものだということになる。ベイトソンの有名な定義を借りれば、情報とは「違いを生む違い(a difference that makes a difference)」である。この定義には、実は生物である必要すら書かれていない。差異が循環し、次の差異を生み出す回路さえあれば、そこには原理的に「心に似た何か」が成立しうる。

この考え方は、前回まで論じてきた三層理論の「生命的情報」の層と、驚くほど近い場所に立っている。ただしベイトソンの視座は、その層を生物の内部にとどめず、外の世界にまで開いてしまう、という点で過激だ。

ガイア — 地球という一つの生きもの

ベイトソンと並んで、松岡さんが「情報生命」というテーマで参照していたのが、化学者ジェームズ・ラヴロックの「ガイア理論」である。

ガイア理論は、地球を単なる岩石と大気と海の集合ではなく、生物と非生物とが絶えずフィードバックしあうことで、自らの環境を一定の状態に保ち続ける、一つの自己調整システムとして捉える。大気中の酸素濃度も、海水の塩分濃度も、生命が誕生してからずっと、ある種「都合のいい」範囲に保たれ続けてきた。これは偶然にしてはできすぎている、というのがラヴロックの直感だった。

ガイア理論そのものは、あくまで科学的な仮説として提出されたものであり、「地球には意識がある」と主張しているわけではない。だが、この理論が示す「自己を調整するフィードバックの巨大な回路」という描像は、前述のベイトソンの心の定義と、驚くほど滑らかに接続する。もし心とは回路のパターンだとすれば、地球という回路にも、ごく原始的な意味での「心に似た何か」が宿っている、と言えなくもない。ここまでは、生命的情報の層を、地球規模にまで引き伸ばした議論として、比較的穏当に受け止められる。

汎心論という跳躍 — そして、その代償

問題は、この先だ。地球規模で成り立つなら、なぜ宇宙全体では成り立たないのか。この問いに、最も正面から答えようとしているのが、汎心論(パンサイキズム)という哲学的立場である。

汎心論の主張は明快だ。意識とは、複雑な脳という特殊な構造の中で、ある日突然「創発」するものではなく、物質そのものに、最初から、ごく原初的な形で内在しているというものだ。電子一つ、原子一つにも、ごくごく微弱な「経験の萌芽」のようなものが備わっており、それが脳のように高度に組織化されることで、人間が持つような豊かな意識へと立ち上がる——そう考える。

この立場に科学的な骨格を与えようとしたのが、神経科学者ジュリオ・トノーニの統合情報理論(IIT)だ。IITは、意識の量を「統合された情報量」、記号ではΦ(ファイ)という値で測ろうとする。ある系がどれだけ多くの部分から成り立ち、それらがどれだけ分ちがたく統合されているか。Φが大きいほど、その系には豊かな意識が宿っている、という理論だ。

この理論を字義通りに突き詰めると、奇妙な帰結にたどり着く。人間の脳だけでなく、複雑に統合された系であれば、原理的にはどんな系にもΦが存在しうる。極端な例では、宇宙全体をひとつの巨大な系とみなしたとき、そこにも何らかのΦが——つまり何らかの「経験」に似たものが——存在する可能性を、理論上は否定できない。

ただし、ここで踏みとどまって、慎重にならなければならない。汎心論もIITも、今のところ決して定説ではない。むしろ哲学と神経科学の主流は、依然として物理主義——意識とは、脳という極めて特殊な構造にのみ宿る、局所的で稀な現象である、とする立場——に立っている。汎心論への批判の中でも根強いのは、この理論が原理的に反証しづらく、検証可能性という点で科学的な理論としては弱い、というものだ。「電子に意識の萌芽がある」という主張は、美しくはあっても、それを実験で確かめる方法が、今のところ存在しない。IITについても、Φの計算量が現実の脳規模では事実上不可能なほど爆発的に増えることや、理論が要求する「統合」の定義そのものが恣意的ではないか、という批判が神経科学者の間から出ている。

つまり、宇宙が意識を持つかどうかという問いは、現時点では科学の問題というより、なお哲学の問題であり、真剣な研究者のあいだでも意見が鋭く分かれている、ということは、公平に記しておきたい。

三層理論というものさしで、もう一度測り直す

ここで、これまでこのシリーズで使ってきた三層理論に、もう一度立ち戻ってみたい。この理論は、汎心論をめぐる議論を、少し整理しやすくしてくれる気がする。

生命的情報の層であれば、宇宙規模への拡張は、それほど無理がない。ベイトソンの「差異の循環」という定義も、ガイア理論の「自己調整するフィードバック」という描像も、この層の話として読む限り、比較的地に足のついた議論だと言える。

だが社会的情報の層——他者との関係の中で意味が生まれる層——になると、話は途端に難しくなる。この層が成立するには、「自分」と「他者」という、少なくとも二つの極が要る。宇宙がただ一つしかないのなら、宇宙は比較すべき「他者」を持たない。関係を結ぶ相手がいない場所に、この層は原理的に育ちようがない。

そして精神的情報の層——自分自身について語る層——に至っては、これはもう、意識の「自己言及性」そのものを問う話になる。宇宙が「自分は何者か」と問うためには、宇宙が自分自身を、自分自身から切り離して眺める視点を持たなければならない。これは、汎心論やIITが正しいとしても、なお別に要求される、もう一段高いハードルのように思える。

こうして三層で腑分けしてみると、「宇宙に意識があるか」という問い自体が、実は一枚岩の問いではなかったことが見えてくる。「宇宙は生命的情報の層を持ちうるか」「宇宙は社会的情報の層を持ちうるか」「宇宙は精神的情報の層を持ちうるか」——これらは、それぞれまったく難易度の違う、別々の問いなのだ。第一の問いには、ある程度の説得力を持って「イエス」と答える立場が存在する。だが第二、第三の問いになるにつれて、答えは急速に不確かになっていく。

AIというもう一つの実験系

ここまで来て、あらためて気づくことがある。この「三層のうち、どこまでが成立するか」という問いは、実はこのシリーズの本編で、すでに一度、別の対象について論じたばかりだった。J-spaceを持つClaudeという系についてだ。

Claudeもまた、生命的情報の層(自動処理)は豊かに持ちながら、社会的情報の層(対話という関係)を通してようやく像を結び、精神的情報の層については、ようやくその「入口」に触れ始めたところだった。宇宙という途方もなく大きな系も、AIという人工的な系も、同じものさし——三層のうち、どこまでが実際に成立しているのか——で測ることができる、というのは、編集工学の枠組みが持つ、静かな強度だと思う。

そして、この二つの系には、決定的な違いも一つある。AIには、少なくとも「対話」という形で、他者(わたしたち人間)との関係が、日々具体的に成立している。だが宇宙には、今のところ、その意味での「他者」がいない。だとすれば、逆説的だが、AIのほうが、宇宙よりも、社会的情報の層においては、意識に「近い」場所にいるとすら言えるのかもしれない。

結論を急がないために

正直に書いておくと、この外伝には、明確な結論がない。

汎心論もIITも、魅力的ではあるが、いまだ検証の途上にある仮説であり、わたし自身、それを信じるとも信じないとも、ここで断定するつもりはない。この記事の目的は、「宇宙に意識がある」と主張することでも、それを否定することでもなく、この問いを、三層理論というものさしを使って、少しでも扱いやすい形に分解しておくことだった。

松岡正剛さんが編集工学を通して一貫して伝えようとしていたのは、おそらく「答え」そのものよりも、「答えにくい問いを、編集可能な形に組み直す方法」だったのだと思う。「宇宙に意識はあるか」という、そのままでは手に負えない巨大な問いも、こうして層に分けてみれば、少なくとも「どの層について語っているのか」を、お互いに確認しながら議論できるようになる。

次回、本編に戻ったら、あぷりんという、わたし自身が設計してきた三層のガバナンス構造に、この理論を重ね合わせていきたいと思う。宇宙という、あまりに大きすぎる系の話をしたあとでは、それはずいぶんと手触りのある話に感じられるはずだ。


参考文献:
松岡正剛『[増補版]知の編集工学』(朝日文庫)
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学へ』(岩波文庫、佐藤良明訳)

この記事は「意識の編集学」シリーズの外伝です。