【前編】
八国山の初夏は、世界がまだ夢を見ているかのように青い。
木漏れ日が雑木林の床を斑(まだら)に染め、風は栗の花の甘い腐臭を孕んで低く這う。生命が過剰なまでに満ちている、その「万緑」の奥深く――武蔵野時雨(むさしの・しぐれ)は、世界の縫い目がほつれかけている場所を、鼻先よりも先に魂で嗅ぎつけた。
「……解せませんね」
声は低く、独り言というよりは、山への問いかけだった。
湿り気を帯びた風に細めた瞳が、一点を射る。 周囲を支配する栗の花の芳香の裏に、もうひとつの「匂い」が潜んでいた。それは古い銀の鈴を鳴らした後に残る、金属的で冷ややかな残響――この世のものではない何かが、かつてここで息をしたことを告げる、記憶の残滓(ざんし)。
時雨の足が、自然と止まる。
クヌギの根元に、不自然な静寂が広がっていた。
そこだけ、まるで大地が「息をすることを忘れた」かのように、周囲の草々は一様に枯れ伏し、代わりに――宝石の粉末を夜露で練り固めたような「瑠璃色の苔」が、完璧な真円を描いて息づいていた。 その円環は、偶然などではあり得ない。測ったように均整の取れたその輪郭は、むしろ意志を持った何かが刻んだ「封印」か、あるいは「招待状」のように見えた。
時雨は懐から銀の匙をひとつ取り出し、円の中心へと差し込んだ。 掬い上げた土は、ひどく軽い。まるで中身を誰かに持ち去られてしまったように。
「植物が忌避し、この苔だけが爆発的に繁殖している……土壌の変質というよりは、『位相』そのものがずれている」
指の腹で土を転がすと、微かに鉄錆の匂いがした。 そして、それだけではない。重力が「ほんの少し軽くなる」感覚。足の裏から浮き上がるような、奇妙な浮遊感が全身を侵していく。これは地ではなく、天と地の境目が薄れた場所特有の感触だ。
脳の中で、散らばったピースが静かに動き出す。
この苔は、養分を土から得ているのではない。かつてここに「天から零(こぼ)れ落ちた何か」が休んだ――その痕跡を、根で貪(むさぼ)っているのだ。
確信と共に膝をつき、さらに深く土を検分しようとしたその瞬間。
音が、消えた。
鳥の声も、風の揺れも、自分の呼吸さえも。山全体が巨大な生き物の肺のように、一斉に息を吸い込んで――止まった。
「キチ、キチ……」
それは羽音に似ていた。 だが、届いたのは鼓膜ではなく、もっと奥――脳の白い核心を、乾いた爪でゆっくりと引っ掻くような振動だった。警告なのか。それとも、扉を叩く音なのか。 時雨の首筋を、冷や汗が一筋だけ、静かに伝い落ちた。
【後編】
「……なるほど。これが、今年の『走り梅雨』の正体ですか」
時雨は立ち上がり、霧の中の山を、静かに見渡した。
いつの間にか立ち込めていた霧が、苔の円環から漏れ出す瑠璃色の燐光を受けて、淡く輝いている。そしてその光の中に――かつて存在し、今は地図にも記憶にも残っていない「道」が、幾筋もの光る水脈(みゃく)となって浮かび上がっていた。
まるで、消えた星座が夜空に蘇るように。
それは特定の湿度と、山に溜まった「霊気の澱(よど)み」が重なった時にだけ姿を現す、空の底へと通じる「獣道」だ。時雨の計算では、数十分の後に降り出す雨がこの光の道を濡らした瞬間――山と空の境界は、溶けてなくなる。
そうなれば。
迷子になった「名前のない住人たち」が、この水脈を辿って地を這い、人里の家々の影へ潜り込む。古い時代の澱みが、今を生きる人間の暮らしに、静かに、しかし確実に流れ込んでいく。
「この地に残された古いものを、今の住人に押し付けるのは、感心しませんね」
声音は冷淡だったが、その瞳の奥に宿るのは――冷たさではなく、静かな怒りに似た何かだった。
時雨は懐を探り、黒い煤のような塊を取り出した。 それは彼女が自ら調合した特製の「迷い香」――特定の周波数の音を吸収し、空間の歪みを論理で縫い直す、言うなれば「見えない世界への処方箋」。
手近な枯れ枝で小さな火を熾すと、その塊を静かに投げ入れた。
立ち上る煙は、最初は細く、しかし次第に意志を持ったように枝分かれし、瑠璃色の霧を切り裂いていった。光る水脈が、一筋、また一筋と塗り潰されていく。まるで消しゴムが、誰かの悪意ある落書きを丁寧に消してゆくように。
それは魔法でも奇跡でもなく、緻密に計算された「論理的な介入」だった。 しかし同時に、山への誠実な「礼儀」でもあった。
煙が空の記憶を静かに上書きし、異界の住人たちの足を、人里から遠い谷の奥へ、奥へと誘導していく。やがて、霧の中の光が、泡のように、ひとつ残らず消えていった。
ポツリ。
鼻先に、冷たい滴が落ちた。 現実への、合図。
見上げれば、瑠璃色の燐光は霧散し、代わりに鈍色の雨雲が低く重く、空の全てを覆っている。
「……降り出しましたか。推理の検証には、ちょうどいい雨です」
火を踏み消し、立ち上がった彼女の背後で、森が低く、地の底から響くように鳴った。 まるで、眠りにつこうとする巨人の寝返りのように。
激しくなる雨の中、時雨は一度だけ振り返る。
煙が薄れていく境界の向こう、本来なら何もないはずのクヌギの古い梢(こずえ)に――半透明の、大きな鳥に似た「何か」が、長い光の尾を引きながら、雨粒を縫って空へ昇っていくのが見えた。その輪郭は雨の中で揺らめき、見ようとすればするほど、ただの光の屈折へと崩れていく。
「今の世界に、貴方の居場所はありませんよ」
その声は、どこか優しかった。 冷淡に見えて、それは「追い払う」言葉ではなく――帰るべき場所を、そっと教えてやる声音だった。
時雨は濡れ始めた道を、迷いのない足取りで下っていった。その左の拳の中に、採取したばかりの「瑠璃色の苔」がひとかけ、この世ならざる証拠品として、かすかな光を放ちながら握られていた。