【前編】
八国山は、雨を飲むたびに――別の山になる。
それは単なる比喩ではない。土が水を含み、樹々が息を吐き、空気そのものが藍色に濁るとき、この山はどこか別の場所と、ひっそりと繋がるのだ。「七変化」とはよく言ったものだけれど、紫陽花が色を変えるのではない。山が世界の縫い目を、ほんの少しだけ解いているのだ。
「時雨さん、見て! 綺麗な石を見つけたよ!」
小学三年生のここちゃんが、泥に染まった両手を、花を捧げるように差し出した。 その掌に転がっていたのは――飴玉のような透明感を湛えた、七色の石。水晶でも瑪瑙でもない。光を受けるたびに色が「滲み出る」ように変わる、この山のものでも、人間のものでもない石だった。
時雨(しぐれ)は一瞥しただけで、柳眉をかすかに曇らせた。それは嫌悪ではなく――古い記憶が疼くような、静かな警戒だった。
「ここちゃん。それを、どこで拾いましたか」 「あそこの、おっきな紫陽花の根っこ。キラキラしてたから、呼ばれたみたいで」
呼ばれた。ここちゃんは無邪気にそう言ったが、その言葉は正確だった。
振り向いた先に――昨日まで存在しなかったものが、そびえていた。 見たこともないほど巨大な紫陽花の生垣。空を塞ぐほどの高さで、左右に果てなく伸び、まるで誰かがこの朝だけのために拵えた生きた迷宮の壁のように、そこに在った。雨粒が花を叩くたび、甘い腐敗臭にも似た香りが揺れる。
「……悪いことは言いません」
時雨は静かに、しかし確かな重さで言った。
「それを捨てなさい。それは石ではない。この山が、迷い子を招くために吐き出した対価ですよ」
しかし山は――待ってくれなかった。
石が、淡い青から「どろり」と赤紫色に溶けるように変色した瞬間。世界が、音もなく組み替えられた。
クヌギの林が消えた。湿った土の匂いが変わった。代わりに現れたのは、終わりの見えない回廊――左右を紫陽花の壁に閉ざされた、静謐にして不穏な通路だった。道の先は、霧に溶けて見えない。
「あ……道が、なくなっちゃった」
ここちゃんが時雨の裾を、小さな指でそっと掴む。 時雨は冷静な瞳で四方を観察し、懐から取り出したのは――一本の銀の匙。鈍く光るそれは、草露を受けてもなお錆びない、何かの護符のような道具だった。
「いいですか、ここちゃん」
時雨の声は、嵐の中の蝋燭のように、揺れず、消えず、ただそこにあった。
「ヘンゼルとグレーテルはパン屑を撒きました。でもこの迷路では色を信じてはいけない。見えるものが、必ずしも道ではありませんから」
【後編】
雨が強さを増す。 まるで迷路そのものが、二人を飲み込もうと急いているかのように。
この迷路には、意志がある。青く染まった花が視界に映れば道は伸び、赤紫に変われば目の前が壁になる。そしてそれを操っているのは――ここちゃんの掌で息をし続ける、七色の石だった。
「キチ……キチ……」
あの音が、また聞こえた。 第一話で出会ったあの乾いた羽音。今度は紫陽花の葉裏から、複数の方向から――まるで、新しい獲物を品定めするように、じりじりと近づいてきていた。
「時雨さん……後ろに、誰かいる気がする」 「振り返ってはいけません」
時雨の言葉は、命令ではなく、呪文のように響いた。
「それは貴方の『影』を欲しがっているモノです。振り返って目が合えば――影は、貴方から離れていきますよ」
立ち止まった時雨は、おもむろに紫陽花の花びらを一枚だけ、無造作に千切った。それを銀の匙に静かに乗せ、指の腹で潰す。透明な汁が弾け散り――草と雨と、何か獣じみた苦みを混ぜ合わせたような、濃い香りが立ち上った。
「アルカロイドの毒……。なるほど」
静かな声の中に、何かが解けていく気配があった。
「この迷路は、石と紫陽花の毒気が共鳴して作り出した――視覚の檻に過ぎません。現実の地形は何も変わっていない。変わっているのは、貴方たちの目が見ているものだけです。」
時雨は薬草袋から、透明な液体の小瓶を取り出した。木酢液――草木を焼いた煙から生まれる、強い酸の雫。彼女はそれを一滴だけ、七色の石に垂らした。
ジリッ――と、短い悲鳴のような音がした。
石の色が、みるみる漂白されていく。七色が薄れ、青が消え、赤が滲み、最後に残ったのは、ただの真っ白な小石だけだった。
次の瞬間――。
巨大な紫陽花の壁が、陽炎のように揺らいだ。溶けた。そして、夢の終わりのように静かに消えた。
気がつけば二人は、見慣れた雑木林の道に立っていた。 雨の音が、何事もなかったかのように降り続けている。
「……時雨さん。今の、なんだったの?」
ここちゃんが、呆然とした声で問う。 時雨は空を一度仰いでから――ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「山が見せた、短いお遊戯ですよ。深い森は退屈すると、たまに子供を遊び相手に選ぶんです。悪意ではなく――ただ、遊びたかっただけ」
それだけ言い残すと、濡れた道を、足早に歩き出す。
ここちゃんは手の中の白い石を見つめ、それをそっと草むらへ返した。
その背後で――雨に濡れた紫陽花たちが、一斉に首を揺らした。まるで、また雨の日に、と囁くように。