【前編】
夏至の光というものは、照らさない。
それは燃やすのだ。影という影を根こそぎ焼き尽くし、世界の皮一枚を剥いで、その下に眠る「裏面」をむき出しにしようとする、刃よりも鋭い光だ。八国山の葉叢は、その刃を浴びて白銀に溶け、空気そのものが薄く歪んでぶるぶると震えている。
小学二年生のそらちゃんは、その震える空気の中に、一匹の影を見た。
ハグロトンボ。漆を何度も塗り重ねたような黒い翅を、開いて、閉じて、また開いて――まるで心臓の鼓動を真似るように、ゆっくりと羽ばたいていた。虫というより、光の中をさまよう小さな「意志」のようだった。
そらちゃんが一歩踏み出すたびに、そのトンボは一歩分だけ先へ逃げる。 誘っているのか、逃げているのか――あるいは、その両方なのか。
気がつくと、彼女はクヌギ林の奥深くへ引き込まれていた。 光の量が変わった。夏至の直射が届かない、緑の天蓋に守られた空間。そこだけ時間が違う速度で流れているような、奇妙な静寂があった。葉擦れの音も、遠くの蝉の声も、まるで水中で聞くように遠く、くぐもっている。
そして――池があった。
地図には載っていない。案内板もない。人の踏んだ痕跡もない。 それなのに池は、まるでずっとそこに在ったかのような――いや、そらちゃんが来ることを知っていたかのような――落ち着いた顔をして、そこに広がっていた。
水面に、波紋がひとつもない。 それが不思議だった。風はある。木の葉が揺れているのに、水だけが完璧に静止していた。まるで水ではなく、磨き上げられた鏡のように、周囲の木々と空の全てを、正確すぎるほど正確に映し出している。
「……きれい」
そらちゃんが水辺にしゃがみ込むと、自分の顔が水の底から浮かび上がってくるように見えた。同じ麦わら帽子。同じ汗で張り付いた前髪。同じ、少し首を傾けた仕草。
何もおかしくない。 これは自分の鏡像だ――そう思いかけた瞬間。
水の中の少女が、先に、微笑んだ。
そらちゃんは動いていなかった。表情も変えていなかった。それなのに、水面の少女は、コンマ何秒か分だけ先んじて、口の端をほんの少し持ち上げた。反射ではない。模倣でもない。それは、向こう側から発された、意志のある歓迎だった。
水の中の手が、ゆっくりと上へ伸びてくる。 そらちゃんも、吸い寄せられるように、指先を水面へと近づけていった。
あと、数センチ。冷気が指先を包む。水面の少女の目が、嬉しそうに細くなる――
「そらちゃん!」
鋭い声が、空気を断ち切った。
時雨(しぐれ)が走ってくるのを、そらちゃんは夢から引き戻されるような感覚で振り返った。彼女の表情は、そらちゃんが今まで見たことのない種類の緊張を帯びていた――怒りではなく、恐れでもなく、何かを「今すぐ止めなければならない」という、静かで強固な意志のようなものだ。
時雨はそらちゃんの肩をつかみ、池から引き離した。
「いいですか。その子を見てはいけません」
「でも時雨さん、あの子、私と手遊びしたいみたいで……」
時雨は水面を一度も直視しなかった。その代わり、懐から漆塗りの印籠を取り出し、蓋を親指で押し開けた。
「それは貴方の鏡像ではありません」
彼女の声は静かだが、その静けさの下に、研ぎ澄まされた刃のような確信があった。
「夏至の光が水面に焼き付けた――この山の、記憶の残り香です。そして今この瞬間、向こう側の世界から貴方の手を引こうとしている、主(ぬし)の指先です」
【後編】
時雨に言われて初めて、そらちゃんは「ずれ」に気がついた。
水面の少女は今も笑っている。だが、そらちゃんが少し眉を動かしても、その笑いは変わらない。そらちゃんが首を傾けると、水の中の少女も傾けるが――コンマ数秒、遅い。まるで水中を伝わる音のように、微かに、致命的に遅れている。
そして、指。 そらちゃんが右手の人差し指を曲げると、水の中の少女が曲げるのは――左手の薬指だった。
「……キチ、キチ、キチ」
翅の音が聞こえてきたのは、その時だ。 一匹ではない。いつの間にか、ハグロトンボが数十匹――いや、もっと――池の上空を旋回していた。翅音が重なり、共鳴し、やがてそれは音ではなく、空気の振動となって、そらちゃんの骨の奥まで届いてくる。意識の輪郭が、溶けるように柔らかくなっていく。
「……なるほど」
時雨は静かに呟いた。その声には、驚きではなく、腑に落ちた者の納得があった。
「光が強すぎて、影が逃げ場を失った。行き場をなくした山の影たちが、水底に沈んで凝り固まった――それが今日の主の正体ですか」
彼女は印籠を傾け、一握りの「黒い砂」を掌に受けた。八国山の煤。特定の波長の光を遮断し、異なる位相の世界を「切り離す」ための触媒だと、以前そらちゃんは教わったことがある。時雨は池の縁を歩きながら、その砂を細い線のように撒いていった。黒い線は水辺に沿って弧を描き、やがて一つの円を成した。
「そらちゃん、目を閉じて。今から、世界を正しく直します」
時雨は銀の匙を逆手に持ち替えた。 水面を叩くのではない。水面の、すぐ上にある「空気の膜」を――まるでそこに張られた見えない薄硝子を割るように――鋭く薙いだ。
パリン。
その音は耳ではなく、鼓膜の裏側で鳴った。目を閉じていても、光が弾けるのがわかった。空間の何かが、ほどけた。
そらちゃんがおそるおそる目を開けると――
水面の少女は、いなかった。 代わりに、ぐるぐると渦を巻く黒い霧が一瞬だけ立ち昇り、そして音もなく空へと散っていった。微笑みは最後の刹那に絶叫へと変わっていたが、それを聞いたのは時雨だけだった。池はみるみる透明度を失い、さっきまでの魔鏡のような輝きは跡形もなく消えて、ただの、夏の泥水へと戻っていった。
旋回していたハグロトンボも、どこへとも知れず消えていた。 頭上から、突き刺さるような夏至の光が降り注いでくる。
「……もう、いないの?」
そらちゃんが尋ねると、時雨は銀の匙を静かに懐へ収めた。
「影は影のあるべき場所へ帰りました」
彼女はそらちゃんの麦わら帽子を少し深く被せ直し、いつもより柔らかい声で続けた。
「夏至の日というのは、光があまりにも強すぎるあまり――自分と影の境界線が、緩んでしまう。だから今日だけは、水鏡に自分の顔を預けてはいけないのです。映ったものが、貴方のものとは限らないから」
二人が池を背にして歩き出した後、濁った水面が一度だけ、静かに揺れた。 風は、なかった。
水の上には、そらちゃんが落とした覚えのない黒い羽が一枚、浮かんでいた。それはくるくると小さな渦を描いて回りながら、誰かを待つように、その場にとどまり続けていた。