第参話:夏至の反転

【前編】

夏至の光というものは、照らさない。

それは燃やすのだ。影という影を根こそぎ焼き尽くし、世界の皮一枚を剥いで、その下に眠る「裏面」をむき出しにしようとする、刃よりも鋭い光だ。八国山の葉叢は、その刃を浴びて白銀に溶け、空気そのものが薄く歪んでぶるぶると震えている。

小学二年生のそらちゃんは、その震える空気の中に、一匹の影を見た。

ハグロトンボ。漆を何度も塗り重ねたような黒い翅を、開いて、閉じて、また開いて――まるで心臓の鼓動を真似るように、ゆっくりと羽ばたいていた。虫というより、光の中をさまよう小さな「意志」のようだった。

そらちゃんが一歩踏み出すたびに、そのトンボは一歩分だけ先へ逃げる。 誘っているのか、逃げているのか――あるいは、その両方なのか。

気がつくと、彼女はクヌギ林の奥深くへ引き込まれていた。 光の量が変わった。夏至の直射が届かない、緑の天蓋に守られた空間。そこだけ時間が違う速度で流れているような、奇妙な静寂があった。葉擦れの音も、遠くの蝉の声も、まるで水中で聞くように遠く、くぐもっている。

そして――池があった。

地図には載っていない。案内板もない。人の踏んだ痕跡もない。 それなのに池は、まるでずっとそこに在ったかのような――いや、そらちゃんが来ることを知っていたかのような――落ち着いた顔をして、そこに広がっていた。

水面に、波紋がひとつもない。 それが不思議だった。風はある。木の葉が揺れているのに、水だけが完璧に静止していた。まるで水ではなく、磨き上げられた鏡のように、周囲の木々と空の全てを、正確すぎるほど正確に映し出している。

「……きれい」

そらちゃんが水辺にしゃがみ込むと、自分の顔が水の底から浮かび上がってくるように見えた。同じ麦わら帽子。同じ汗で張り付いた前髪。同じ、少し首を傾けた仕草。

何もおかしくない。 これは自分の鏡像だ――そう思いかけた瞬間。

水の中の少女が、先に、微笑んだ。

そらちゃんは動いていなかった。表情も変えていなかった。それなのに、水面の少女は、コンマ何秒か分だけ先んじて、口の端をほんの少し持ち上げた。反射ではない。模倣でもない。それは、向こう側から発された、意志のある歓迎だった。

水の中の手が、ゆっくりと上へ伸びてくる。 そらちゃんも、吸い寄せられるように、指先を水面へと近づけていった。

あと、数センチ。冷気が指先を包む。水面の少女の目が、嬉しそうに細くなる――

「そらちゃん!」

鋭い声が、空気を断ち切った。

時雨(しぐれ)が走ってくるのを、そらちゃんは夢から引き戻されるような感覚で振り返った。彼女の表情は、そらちゃんが今まで見たことのない種類の緊張を帯びていた――怒りではなく、恐れでもなく、何かを「今すぐ止めなければならない」という、静かで強固な意志のようなものだ。

時雨はそらちゃんの肩をつかみ、池から引き離した。

「いいですか。その子を見てはいけません」

「でも時雨さん、あの子、私と手遊びしたいみたいで……」

時雨は水面を一度も直視しなかった。その代わり、懐から漆塗りの印籠を取り出し、蓋を親指で押し開けた。

「それは貴方の鏡像ではありません」

彼女の声は静かだが、その静けさの下に、研ぎ澄まされた刃のような確信があった。

「夏至の光が水面に焼き付けた――この山の、記憶の残り香です。そして今この瞬間、向こう側の世界から貴方の手を引こうとしている、主(ぬし)の指先です」

【後編】

時雨に言われて初めて、そらちゃんは「ずれ」に気がついた。

水面の少女は今も笑っている。だが、そらちゃんが少し眉を動かしても、その笑いは変わらない。そらちゃんが首を傾けると、水の中の少女も傾けるが――コンマ数秒、遅い。まるで水中を伝わる音のように、微かに、致命的に遅れている。

そして、指。 そらちゃんが右手の人差し指を曲げると、水の中の少女が曲げるのは――左手の薬指だった。

「……キチ、キチ、キチ」

翅の音が聞こえてきたのは、その時だ。 一匹ではない。いつの間にか、ハグロトンボが数十匹――いや、もっと――池の上空を旋回していた。翅音が重なり、共鳴し、やがてそれは音ではなく、空気の振動となって、そらちゃんの骨の奥まで届いてくる。意識の輪郭が、溶けるように柔らかくなっていく。

「……なるほど」

時雨は静かに呟いた。その声には、驚きではなく、腑に落ちた者の納得があった。

「光が強すぎて、影が逃げ場を失った。行き場をなくした山の影たちが、水底に沈んで凝り固まった――それが今日の主の正体ですか」

彼女は印籠を傾け、一握りの「黒い砂」を掌に受けた。八国山の煤。特定の波長の光を遮断し、異なる位相の世界を「切り離す」ための触媒だと、以前そらちゃんは教わったことがある。時雨は池の縁を歩きながら、その砂を細い線のように撒いていった。黒い線は水辺に沿って弧を描き、やがて一つの円を成した。

「そらちゃん、目を閉じて。今から、世界を正しく直します」

時雨は銀の匙を逆手に持ち替えた。 水面を叩くのではない。水面の、すぐ上にある「空気の膜」を――まるでそこに張られた見えない薄硝子を割るように――鋭く薙いだ。

パリン。

その音は耳ではなく、鼓膜の裏側で鳴った。目を閉じていても、光が弾けるのがわかった。空間の何かが、ほどけた。

そらちゃんがおそるおそる目を開けると――

水面の少女は、いなかった。 代わりに、ぐるぐると渦を巻く黒い霧が一瞬だけ立ち昇り、そして音もなく空へと散っていった。微笑みは最後の刹那に絶叫へと変わっていたが、それを聞いたのは時雨だけだった。池はみるみる透明度を失い、さっきまでの魔鏡のような輝きは跡形もなく消えて、ただの、夏の泥水へと戻っていった。

旋回していたハグロトンボも、どこへとも知れず消えていた。 頭上から、突き刺さるような夏至の光が降り注いでくる。

「……もう、いないの?」

そらちゃんが尋ねると、時雨は銀の匙を静かに懐へ収めた。

「影は影のあるべき場所へ帰りました」

彼女はそらちゃんの麦わら帽子を少し深く被せ直し、いつもより柔らかい声で続けた。

「夏至の日というのは、光があまりにも強すぎるあまり――自分と影の境界線が、緩んでしまう。だから今日だけは、水鏡に自分の顔を預けてはいけないのです。映ったものが、貴方のものとは限らないから」

二人が池を背にして歩き出した後、濁った水面が一度だけ、静かに揺れた。 風は、なかった。

水の上には、そらちゃんが落とした覚えのない黒い羽が一枚、浮かんでいた。それはくるくると小さな渦を描いて回りながら、誰かを待つように、その場にとどまり続けていた。

アプリンとシャミの相談室

上の一覧から、気になる物語を選んで読んでみてね。紙の奥で、武蔵野の浅い地層が静かに呼吸しているわ。
シャ
ゆっくりしていってにゃ。境界の向こうで、風だけが古い地図をめくるみたいに音を立ててたにゃ。