【前編】
六月の最後の夜――八国山は、誰かが空ごと染め落としたような、深い深い藍に沈んでいた。
この夜だけは違う。 「夏越の祓(なごしのはらえ)」を明日に控えたこの刻限、山は半年分の記憶を土の中に押し込め、ただ静かに、息を殺している。そして古くから語り継がれてきたことがある。六月の晦日、日付が変わる寸前のほんの一瞬だけ、空と地のあいだを隔てる膜が、薄紙のように透けて見えるのだと。
「……しぐれ、みて。おしり、ひかってる」
四歳のれおくんの指が、闇の奥を、おっかなびっくり突いた。
武蔵野時雨は、その小さな手をそっと包みながら、夜の奥底を見据えた。 舞っていた。無数の蛍が。 しかしそれは、野原でよく見かける黄緑色の蛍ではなかった。どの一匹も、まるで削り出した月光を腹の中に飼っているかのように、冷たく、神々しく、銀色に近い光を放っていた――まるで夜空そのものが地上に降りてきて、そのまま羽を生やしたかのように。
「れおくん、あまり離れてはいけませんよ」
時雨は静かに、けれど確かな重さをもって告げた。
「今夜の蛍は、少しばかり……食いしん坊ですから」
れおくんには、その意味が半分も分からなかっただろう。 けれど、その言葉が空気に溶けきる前に――それは起きた。
一匹だけ、他とは明らかに違う蛍がいた。 宝石を、誰かが夜に投げ込んだような、ひときわ大きく、ひときわ強い輝きを持つ一匹。 その蛍はふわりと地を離れると、螺旋を描きながら、ゆっくりと、ゆっくりと、北斗七星の眠る高みへと昇っていった。
そして。
一等星のすぐそばにたどり着いた蛍は、ためらいもなく小さな口を開けると――
**「ぱくり」**と、星を食べた。
「……あ」
れおくんの唇から、声というよりも息が漏れた。 「おほしさま、たべちゃった」
その一言が夜の帳に触れた瞬間、八国山の静寂はひび割れ、何か大きなものが、ゆっくりと目を覚ますような気配が、二人の足元から這い上がってきた。
【後編】
星を飲み込んだ蛍の体が、内側から弾けるように変わっていった。 銀色の光は金色に変じ、金色はやがて、見ている者の目に焼きつくような、眩い橙へと燃え上がった。 それは、小さな太陽が一つ、夜の中に生まれた瞬間だった。
その蛍が、ゆっくりと降りてくる。 れおくんの元へ。
時雨は息を呑んだ。大人の目には、それはただの強烈な発光体にすぎない。しかし四歳のれおくんには――その澄んだ眼には――蛍の透き通った腹の内側で、さっきまで天の高みにあったはずの星が、まるで美味しいお菓子を食べた後のように、満足そうに瞬いているのが、はっきりと見えていた。
「しぐれ」
れおくんが振り返り、囁く。 「おほしさま、おなかのなかでわらってるよ」
言いながら、れおくんはそっと両手を差し出した。 迷いのない、子どもだけが持つ無垢な差し出し方で。
金色の蛍は、その掌の中に――吸い込まれるように、着地した。
その刹那。
足元の土が消えた。 雑草が光の粒となって宙に溶け、木々のざわめきが天体の回転する低い唸りへと変わった。八国山が、宇宙になった。宇宙が、八国山になった。二人は今、無数の星の流れの真っ只中に立っており、足元には天の川が、頭上には夏の大地が広がっていた。
それが――年に一度だけ訪れる、「星の合流点」だった。 山と空が、同じ一つの夢を見る夜。
「……れおくん」
時雨の声は、柔らかかった。しかし、その柔らかさの奥に、曲げることのできない芯があった。
「それを、離してあげてください。その星は、山に返さなくてはなりません。さもなければ――夜が、明けなくなってしまいます」
れおくんは金色の光を見つめた。 名残惜しそうに。 それでも、何かを確かに理解したように。
やがて、小さな唇がすぼまり――ふっと、掌に向けて息を吹いた。 たんぽぽの綿毛を飛ばすような、あの息で。
金色の蛍は再び夜へと舞い上がり、食べた星を、そっと元の場所へ吐き出した。 夜空に、欠けていたピースが嵌まる音がした――音は聞こえなかったけれど、確かに、した。 星座が、完成した。
「……バイバイ、おほしさま」
気がつけば二人は、湿った土と夏草の匂いが満ちる、いつもの八国山の散歩道に立っていた。 遠くの梢の向こう、夜明けを告げる一番鳥が、まだ眠い声で鳴いている。
「れおくん、何か覚えていますか?」
時雨が問いかけると、れおくんは眠そうに目を擦りながら、自分の小さな掌をじっと見つめた。 そこに星はなかった。金色の光もなかった。 あるのは、四歳の子どもの、少しだけ土と草の匂いのする、柔らかな手のひらだけ。
しかしその掌の奥には――言葉にできない場所に――夏至を過ぎたばかりの夜の温もりと、光でできた記憶が、小さな種のように、ひっそりと宿っていた。
「……おほしさま、あまかったよ」
れおくんのその一言を受けて、時雨はふっと笑った。 この季節でいちばん穏やかな、梅雨晴れの朝に似た笑みで。