第五話:書を抱く猫と、雨音の三重奏

【前編】

八国山の雨には、時計の針を狂わせる力がある。

梅雨の夜が最も深くなる頃、紫陽花が闇の中に白く浮かび上がる頃――時雨の庵「紫陽花亭」の縁側に、一人の、あるいは一匹の、風変わりな賓客が現れた。

まず聞こえたのは、声だった。

「……やれやれ、この季節の湿気は、古書の背表紙を傷めていけませんね」

続いて現れたのは、その声の主――橙と黒の斑模様に白い腹、いかにも満ち足りていそうな丸い体躯、そして半眼に垂れた目蓋の下で世界のすべてを見透かすような、あの眼差し。腕は胸の前でしっかりと組まれ、その脇には分厚い一冊の本が、まるで最初からそこに生えていたかのように収まっている。二本の足で悠然と歩く姿は、飄々として、ふてぶてしく、それでいて否定しようのない威厳を帯びていた。

彼の名は、シャミ。

音楽と美術、古今東西の文学を愛し、怠惰と博識を矛盾なく同居させる、この八国山でも一際稀有な存在――橙毛の哲学者にして、自称「美の番人」である。

「シャミさん! また新しい本?」

庵の中で時雨の手伝いをしていた四歳のれおくんが、目を輝かせて飛び出してくる。シャミはちらりと視線を落とし、鼻の頭に乗せた見えない眼鏡をクイと押し上げるような仕草で――実際に眼鏡はかけていないのだが、そう見えるほど知的な所作で――満足げに喉の奥を鳴らした。

「左様。今日はラヴェルの譜面と、ボードレールの詩集を並行して愉しんでいたところですよ、れおくん」

腕組みを解くことなく、それでいて本は落とさない。シャミの腕には、そういう種類の万能さが備わっていた。

「音楽と文学というものはね、雨の夜という最高の舞台装置があってこそ――完成するのです」

時雨は無言のまま、淹れ立ての焙じ茶を二つの湯呑みに、過不足なく注いだ。

「……シャミさん」

静かな声。

「貴方のその本、昨日はルネサンスの画集ではありませんでしたか?」

シャミは半眼のまま、世界で最も当然のことを語るように言った。

「おや、時雨さん。美というものは、形を変えて絶えず流動するものですよ」

一拍。

「アーカイブに閉じ込めるだけが、愛ではありません」

時雨は何も言わなかった。ただ、湯呑みをシャミの前に、静かに置いた。

紫陽花亭の縁側で腕を組み、紫陽花の庭を背景にしたシャミ

【後編】

軒先から落ちる雨粒が、手水鉢を叩き、規則正しいリズムを刻んでいる。

シャミは――ようやく腕を解き――抱えていた本を愛おしそうに開いた。れおくんにも見えるよう、膝の上へそっと置く。その所作だけは、どこまでも丁寧だった。

「いいですか、れおくん」

シャミが言った。いつもより少し、低い声で。

「この『雨音』を、よく聴いてごらんなさい」

れおくんが耳を澄ます。

「これはただの水滴の音ではない。山が――この八国山そのものが奏でる――弦楽四重奏の一部なのです」

シャミが空いた手を宙へ差し上げ、見えない楽団を指揮するように、ゆっくりと動かした。

すると、不思議なことが起きた。

雨音が、重なり合い始めた。軒先の粒が第一ヴァイオリンとなり、手水鉢の響きがチェロへと変わり、遠い木立を打つ雨が低弦のピチカートを刻む。やがて庵全体が、深く、温かく、それでいてどこか哀しい弦楽の音色に包まれていく。

れおくんが、本の中の挿絵に、そっと指先で触れた。

描かれた貴婦人たちが――動いた。

雨の調べに合わせて、裾を翻し、手を取り合い、古い紙の中でゆっくりと踊り始める。

「わあ……! 本の中、歌ってるみたい!」

「感性が鋭い」シャミは半眼のまま、しかし確かに満足そうに喉を鳴らした。「これだから、子供との対話はやめられない」

それから彼は顔を上げ、縁側の向こうに浮かぶ紫陽花の青を見つめた。

「時雨さん、この闇に溶け込んだ紫陽花の『青』――これはかつて北斎が命を懸けて求めたベロ藍に通じる、魂の沈殿色だと思いませんか」

時雨は少しだけ、口の端を上げた。

「……論理的ではありませんが、情緒としては理解できます」

一拍置いて、静かに付け加える。

「ですがシャミさん、あまり知識をひけらかしていると、せっかく淹れたお茶が冷めてしまいますよ」

シャミは一瞬だけ、その半眼をわずかに見開いた。 そして何も言わずに湯呑みを取り、一口、静かに飲んだ。


夜が更けるにつれ、紫陽花亭の中に、三つの層が積み重なっていった。

シャミが持ち込んだ美と知の香り。れおくんの、何物にも染まっていない純粋な笑い声。そして時雨が庵の隅々に張り巡らせた、静謐な秩序という見えない結界。

この三つが混ざり合い、溶け合い、言葉では形容できない――奇妙で、温かで、二度と同じ夜には戻れない「非日常」が、雨音の中に完成していた。

やがてシャミは、ゆっくりと立ち上がった。

「……さて」

胸の前で再び腕を組み、分厚い本を脇に抱え直す。

「そろそろ星の巡りが変わる時間だ。れおくん、次はモーツァルトの旋律が流れる頃に、また語り合いましょう」

シャミは一礼した。半眼のまま、腕組みのまま、飄々とした足取りで――雨上がりの闇の中へと、静かに消えていった。

後に残ったのは、古い紙と、かすかな薔薇の香り。

「しぐれ、シャミさんの本、こんど貸してくれるかな?」

「さあ……」時雨は濡れた夜の森を見つめながら、れおくんの頭にそっと手を置いた。「でも、次に会うときには――彼はきっとまた、別の『世界』を抱えてくるはずですよ」

アプリンとシャミの相談室

上の一覧から、気になる物語を選んで読んでみてね。紙の奥で、武蔵野の浅い地層が静かに呼吸しているわ。
シャ
ゆっくりしていってにゃ。境界の向こうで、風だけが古い地図をめくるみたいに音を立ててたにゃ。