【前編】
その日の空は、最初から落ち着きがなかった。
八国山の上空を流れる雲の群れが、いつもと違う速さで東へ東へと急いでいた。まるで何かから逃げているように。あるいは、何かを置き忘れてきたことに、ようやく気づいたように。
武蔵野時雨がそれに気づいたのは、湯気を立てる土瓶を抱えて斜面の中腹を歩いていた時のことだった。
大気の圧が、微かに変わっている。
(……雲の群れに、乱れがある)
天を仰ぐ細い瞳が、青の中の一点を捉えた。群れの端が、ほつれていた。糸の切れた凧のように、一片だけが取り残されて、方角も速さも失い、ただふわりふわりと漂っている。
雲の迷子、などというものは、気象学的には存在しない。
しかし、この山では。
(――気象学的には、ね)
時雨が口の端に微かな苦みを浮かべた瞬間、その白いかけらは、ゆっくりと山を降りてきた。
そらちゃんの頭の上に、それが降り立ったのは、ほとんど自然の成り行きとしか言いようがなかった。白く、柔らかく、ゆっくりと呼吸するような、ちいさな雲のかけら。そらちゃんはしばらく上を向いたまま動かず、それから静かに言った。
「……お前、迷子か」
雲は答えなかった。ただ、そらちゃんの頭の上で、心細そうにちぢこまった。
「腹が減ってる」
断定だった。そらちゃんの観察眼に、問いはいらない。「息の仕方が浅い。水蒸気の密度が落ちてる。これは空腹の症状と一致する」
「雲に空腹などという概念が……」と言いかけた時雨の言葉を、ここちゃんの声が遮った。
「なんか甘いにおいがする!!」
森で一番の鼻が、それを知覚したのだ。ここちゃんはすでに手の中に、今朝おばあちゃんに持たされた小さな包みを取り出していた。包みを開くと、丸く小さな干し柿が、白い粉をまとって並んでいる。
「はい、どうぞ」
ここちゃんが差し出した干し柿を、雲はためらわなかった。ぱくり、とやわらかく包み込んで、しばらくして――ゆっくりと、ピンク色に染まり始めた。
甘さが全身に広がるように。満ち足りた喜びが、そのまま色になるように。
桃色の光が夕日と混ざり合い、山の斜面をやわらかく染めた。そらちゃんが小さく目を細める。時雨は手帳を取り出した。シャミは石の上から、興味深そうに尾の先を揺らしていた。
「……文献にある。江戸期の絵図に、夕焼けの中に桃色の雲が混じる日は吉兆と記されていた」時雨が呟く。
「それはこういうことだったのかもしれませんね、にゃ」とシャミが静かに言った。
問題は、そこからだった。
【後編】
おやつを食べた雲は、すっかり甘えん坊になった。
ふわふわと漂い、最初はここちゃんの頭の周りを旋回し、そらちゃんの肩に止まり、時雨の袖口に巻きついて、まるで行き場所を探すように彷徨っていた。そして最終的に――なぜか、れおくんの背中に着地した。
「……僕、何もしてないんだけど」
れおくんが困惑の声を上げたが、雲はもう動かなかった。大きく、温かく、少しだけ頼りになりそうなものを、雲なりの基準で選んだのかもしれなかった。れおくんの背中の上で、桃色がかった白い塊がゆったりと息をしている。
「馬じゃないぞ!」
「雲に語義は通じないにゃ」シャミが言った。「文学的に解釈するなら、あなたは今、雲を羽織った小さな旅人にゃ」
「全然嬉しくない!」
しかし、そのまましぶしぶ歩き始めたれおくんの背中の雲は、木漏れ日の中でやわらかく輝き、傍から見れば確かに――どこか遠い国の、旅の話に出てきそうな絵だった。本人だけがそれを知らないまま、秋の斜面をふらふらと歩いた。
「どうやって戻す」そらちゃんが時雨に問う。
「……試みることはできます」
時雨は土瓶を持ち直し、その蓋を少し傾けた。ほんの細い隙間から、白い湯気が一筋、秋の空気に溶けるように立ち上った。
雲が、動いた。
れおくんの背中の上で、ぴくりと反応した。湯気の匂いを辿るように、少しだけ浮き上がり、少しだけ傾いて、お茶の香りの方向を向く。時雨は土瓶をゆっくりと、空の方へ傾ける。湯気が細くたなびき、天へと向かって伸びていく。
「……お茶の湯気は水蒸気だから。雲にとっては、仲間の声みたいに聞こえるのかもしれない」
そらちゃんが静かにそう言ったとき、雲はもう空へと浮かび始めていた。
ゆるゆると高くなる。ゆっくりと薄くなる。桃色がほどけて白になり、白が青に溶けていく。群れのいる場所へ、帰るべき方角へ、秋の風に乗って流れていく。
そして最後に一度だけ。
山の上空で、はっきりと桃色に染まってみせた。
ここちゃんが手を振った。そらちゃんは小さく頷いた。れおくんは背中を確かめてから、ほっとしたような、少しだけ寂しいような顔をした。
「また来るかな」とここちゃんが言う。
「雲に記憶があるかどうか、わかりません」時雨が答えながら、静かに笑った。「ただ、この山の湯気の匂いは覚えていく気がします」
シャミが石の上から、秋の空を長く見上げていた。
「プルーストが言ったにゃ。匂いは、時間を超えて最も遠くまで届くと。にゃ」
「……それを雲に当てはめますか」
「なぜ当てはめてはいけないのかにゃ」
時雨は答えず、土瓶に残ったお茶をもう一杯、自分の器に注いだ。湯気が細くひとすじ、空へと向かって伸びていく。
それはまるで、帰り道を失ったものへの、小さな灯台のように見えた。
次回予告
第八話 霜の夜と、文字の降る朝