八国山だより 第8話 晩秋・三百七年ぶりの好奇心

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第八話:お地蔵様の忘れ物

【前編】

八国山の境界には、終わりと始まりが同居している。

石段がある。苔がある。そして、何百年もそこにある顔がある。

武蔵野時雨がその石段を上ったのは、純粋に近道のためだった。しかし足が止まったのは、理屈ではなく、あの感覚だった――大気の中に「ずれ」がある。いつもと同じ苔の匂い、同じ土の湿り気、しかしその奥に、何かが「動いた後」の残響が漂っていた。

(……この地蔵、先ほどまで動いていた)

石のくせに、妙な体温がある。

時雨は目を細めた。お地蔵様の両掌が、ほんの少し、いつもと角度が違う。何百年も同じ位置で合わせられていたはずの掌が、今日だけは――何かを、抱えるような形をしていた。

「……スマホ?」

れおくんが追いついてきて、真っ先に言ったのがそれだった。

石のくせに妙にリアルな形の、平たい何かが、地蔵の両掌にきちんと収まっている。よく見れば全部石彫りだった。しかし彫りの精巧さが尋常ではない。画面には無数の「いいね」マークが刻み込まれ、右上の隅に電波のアンテナまである。

「最近の若者が皆揃って見ておるものが、儂にはどうにも気になってのう」

声は石から来た。低く、少し砂を含んだような、しかし確かに温かい声だった。「それで、真似して作ってみたのじゃ」

ここちゃんが「わあ」と声を上げた。そらちゃんは無言のまま、石彫りのスマホをまじまじと観察している。時雨は手帳を取り出し、万年筆を走らせた。

「何百年ぶりに、手を動かしたわけですか」

「三百と、七年ぶりじゃな」

「……それだけの時間をかけて、作ったのがSNSの模倣とは」

「おぬしも気になったことがあろう。通りすがる人間が皆、同じものを眺めて、同じ顔をして歩いておる。儂には何が見えているか、知りたかったのじゃ」

時雨は、反論の言葉を飲み込んだ。

三百七年。その長さの好奇心を、笑うことは誰にもできない。

そらちゃんが石彫りのスマホを小さな指でなぞった。「彫りが細かい。一晩では無理な精度」

「五十年かけたわい」お地蔵様は少し自慢げに言った。「最初の三十年は画面が丸かった」


【後編】

最初に動いたのは、シャミだった。

石垣の上からするりと降りたシャミは、お地蔵様の前に座り、その石彫りのスマホを静かに眺めた。尾の先がゆっくり揺れる。それから、ひどく真剣な顔で言った。

「映える角度、教えてあげましょうか。にゃ」

「……映える、とは」

「作ったなら、見せなければ意味がないにゃ。芸術は孤独の中で生まれるが、光の中でしか完成しないにゃ」

お地蔵様が、長い沈黙の後に言った。「続けよ」

シャミの指導が始まった。

「まず、光の方向にゃ。今の角度では苔の影が掌に落ちておる。首を――そう、右に。もう少し。ミリ単位にゃ」

何百年ぶりかに、お地蔵様の首が動いた。

石が鳴った。低く、地の底から響くような音が、一度だけ山に満ちた。鳥が一斉に飛び立ち、風が止まり、木の葉が息を呑んだ。ここちゃんが思わずれおくんの袖を掴んだ。

そして――お地蔵様は、ほんのわずか、首を傾けた。

「……いい、にゃ」シャミが静かに言った。「三百七年かけて作ったものは、三百七年分の重さがある。それを、正しい光の角度で見せるのにゃ」

時雨が土瓶を持ち直し、一歩前に出た。

「お地蔵様。写真を、撮らせていただいてよいですか」

「……写真、とは」

「光で絵を写し取るものです。あなたが今日ここで動いたことの、証拠になります」

長い沈黙。秋の風が石段を吹き上げた。

「……頼もう」

時雨は懐から小さな銀の機械を取り出した。かちり、と音がした。光が一度だけ、お地蔵様の掌の石彫りのスマホを照らした。そらちゃんが隣から覗き込んで、小さく頷いた。「ちゃんと映ってる。いいね、の数まで」

時雨が写真をお地蔵様に見せると――石の口元に、かすかな変化が生まれた。それを笑みと呼んでいいかどうか、時雨には確信が持てなかった。しかし、そこに何かが宿ったことは、間違いなかった。

「……これが、皆の見ておるものか」

「ええ」

「儂の方が、ずっと長く石を彫っておった」

「そうですね」

「なのに、こちらの方が、温かく見える」

時雨は答えなかった。シャミが石垣の上に戻りながら言った。「温かさは、時間ではなく、誰かに見せようとした意志から来るにゃ。あなたの石彫りには、それがあるにゃ」

ここちゃんが手を振った。れおくんが深々と頭を下げた。そらちゃんは石段を降りながら、もう一度だけ振り返った。

「また更新しに参れよ」

お地蔵様の声は小さく、しかし確かに、枯れ葉の舞う秋の風の中に、溶けるように消えていった。

石段を下りながら、時雨は手帳に短くこう記した。

――地蔵、三百七年ぶりに首を傾ける。理由:好奇心。結論:好奇心に、年齢も素材も関係ない。

山が、低くひとつ、満足そうに鳴った。

アプリンとシャミの相談室

上の一覧から、気になる物語を選んで読んでみてね。紙の奥で、武蔵野の浅い地層が静かに呼吸しているわ。
シャ
ゆっくりしていってにゃ。境界の向こうで、風だけが古い地図をめくるみたいに音を立ててたにゃ。