【前編】
八国山の境界には、終わりと始まりが同居している。
石段がある。苔がある。そして、何百年もそこにある顔がある。
武蔵野時雨がその石段を上ったのは、純粋に近道のためだった。しかし足が止まったのは、理屈ではなく、あの感覚だった――大気の中に「ずれ」がある。いつもと同じ苔の匂い、同じ土の湿り気、しかしその奥に、何かが「動いた後」の残響が漂っていた。
(……この地蔵、先ほどまで動いていた)
石のくせに、妙な体温がある。
時雨は目を細めた。お地蔵様の両掌が、ほんの少し、いつもと角度が違う。何百年も同じ位置で合わせられていたはずの掌が、今日だけは――何かを、抱えるような形をしていた。
「……スマホ?」
れおくんが追いついてきて、真っ先に言ったのがそれだった。
石のくせに妙にリアルな形の、平たい何かが、地蔵の両掌にきちんと収まっている。よく見れば全部石彫りだった。しかし彫りの精巧さが尋常ではない。画面には無数の「いいね」マークが刻み込まれ、右上の隅に電波のアンテナまである。
「最近の若者が皆揃って見ておるものが、儂にはどうにも気になってのう」
声は石から来た。低く、少し砂を含んだような、しかし確かに温かい声だった。「それで、真似して作ってみたのじゃ」
ここちゃんが「わあ」と声を上げた。そらちゃんは無言のまま、石彫りのスマホをまじまじと観察している。時雨は手帳を取り出し、万年筆を走らせた。
「何百年ぶりに、手を動かしたわけですか」
「三百と、七年ぶりじゃな」
「……それだけの時間をかけて、作ったのがSNSの模倣とは」
「おぬしも気になったことがあろう。通りすがる人間が皆、同じものを眺めて、同じ顔をして歩いておる。儂には何が見えているか、知りたかったのじゃ」
時雨は、反論の言葉を飲み込んだ。
三百七年。その長さの好奇心を、笑うことは誰にもできない。
そらちゃんが石彫りのスマホを小さな指でなぞった。「彫りが細かい。一晩では無理な精度」
「五十年かけたわい」お地蔵様は少し自慢げに言った。「最初の三十年は画面が丸かった」
【後編】
最初に動いたのは、シャミだった。
石垣の上からするりと降りたシャミは、お地蔵様の前に座り、その石彫りのスマホを静かに眺めた。尾の先がゆっくり揺れる。それから、ひどく真剣な顔で言った。
「映える角度、教えてあげましょうか。にゃ」
「……映える、とは」
「作ったなら、見せなければ意味がないにゃ。芸術は孤独の中で生まれるが、光の中でしか完成しないにゃ」
お地蔵様が、長い沈黙の後に言った。「続けよ」
シャミの指導が始まった。
「まず、光の方向にゃ。今の角度では苔の影が掌に落ちておる。首を――そう、右に。もう少し。ミリ単位にゃ」
何百年ぶりかに、お地蔵様の首が動いた。
石が鳴った。低く、地の底から響くような音が、一度だけ山に満ちた。鳥が一斉に飛び立ち、風が止まり、木の葉が息を呑んだ。ここちゃんが思わずれおくんの袖を掴んだ。
そして――お地蔵様は、ほんのわずか、首を傾けた。
「……いい、にゃ」シャミが静かに言った。「三百七年かけて作ったものは、三百七年分の重さがある。それを、正しい光の角度で見せるのにゃ」
時雨が土瓶を持ち直し、一歩前に出た。
「お地蔵様。写真を、撮らせていただいてよいですか」
「……写真、とは」
「光で絵を写し取るものです。あなたが今日ここで動いたことの、証拠になります」
長い沈黙。秋の風が石段を吹き上げた。
「……頼もう」
時雨は懐から小さな銀の機械を取り出した。かちり、と音がした。光が一度だけ、お地蔵様の掌の石彫りのスマホを照らした。そらちゃんが隣から覗き込んで、小さく頷いた。「ちゃんと映ってる。いいね、の数まで」
時雨が写真をお地蔵様に見せると――石の口元に、かすかな変化が生まれた。それを笑みと呼んでいいかどうか、時雨には確信が持てなかった。しかし、そこに何かが宿ったことは、間違いなかった。
「……これが、皆の見ておるものか」
「ええ」
「儂の方が、ずっと長く石を彫っておった」
「そうですね」
「なのに、こちらの方が、温かく見える」
時雨は答えなかった。シャミが石垣の上に戻りながら言った。「温かさは、時間ではなく、誰かに見せようとした意志から来るにゃ。あなたの石彫りには、それがあるにゃ」
ここちゃんが手を振った。れおくんが深々と頭を下げた。そらちゃんは石段を降りながら、もう一度だけ振り返った。
「また更新しに参れよ」
お地蔵様の声は小さく、しかし確かに、枯れ葉の舞う秋の風の中に、溶けるように消えていった。
石段を下りながら、時雨は手帳に短くこう記した。
――地蔵、三百七年ぶりに首を傾ける。理由:好奇心。結論:好奇心に、年齢も素材も関係ない。
山が、低くひとつ、満足そうに鳴った。