八国山だより 第9話 夕暮れ・影たちの自由時間

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第九話:影法師のストライキ

【前編】

夕暮れは、八国山では少しだけ違う色をしている。

光が長く伸び、影が濃く重なり、森の輪郭が水彩画の端のようにほつれていく時間。武蔵野時雨はその「境界の薄さ」を、誰よりも正確に知っていた。昼と夜の縫い目がほどけかける瞬間、この山では、あってはならないことが、ごく自然に起きる。

だから今日も、気づいた時には遅かった。

(……足元が、軽い)

時雨が視線を落とした時、自分の影はすでに地面から半身を起こしていた。

ぺり、という音は聞こえなかったかもしれない。しかし確かに、影は剥がれた。まるで長い間貼り付いていた絵が、ある朝ふと壁から浮き上がるように。そして時雨の影は立ち上がり、背筋を伸ばし、それから本体をちらりと見た。

「……随分と長く、付き合ってきましたね」

時雨が言うと、影は何も答えなかった。答える代わりに、深々とお辞儀をした。それは侮辱ではなく、礼儀だった。そして影は、夕暮れの斜面へと歩き出した。

「ずっと足元にいるのは、もう飽きた」

その声は、影の声というより、風が木の間を抜ける時の音に似ていた。

れおくんの影が次に立ち上がった。本体を一度だけ振り返り、「悪く思うなよ」とでも言いたそうな角度で首を傾けてから、さっさと斜面を下っていった。そらちゃんの影は音もなく起き上がり、ここちゃんの影はひときわ元気よく跳ね上がり、木の実をひとつ蹴って坂を駆け上がっていった。

五人が、棒立ちになっていた。

「……前代未聞ですか」れおくんが時雨に問う。

「文献に一例あります」時雨は静かに答えた。「応永年間、武蔵野で影が集団で剥がれたと記録されている。理由は――」

「理由は」

「飽きた、と」

沈黙が落ちた。そらちゃんが空を見上げた。「太陽があの角度になると、影の持つエネルギーが臨界を超える可能性がある。理論上は」

「理論上は、ね」時雨が繰り返した。

影たちは今、山の斜面で好き勝手に動き回っていた。木の実を拾い、石の上に寝そべり、枯れ葉を踏んでその音を確かめ、ここちゃんの影に至っては木に登ってそのまま梢の上で夕焼けを眺めていた。本体たちが呆然と立ち尽くす中、影法師たちだけが、この秋の夕暮れを満喫していた。

シャミが石垣の上から、尾を揺らしながら全体を眺めていた。

「自由というのは、いつも誰かの足元から始まるにゃ」

「今は哲学より対策が必要です」

「対策と哲学は、しばしば同じものにゃ」


【後編】

影たちの間で、競技が始まったのは日が傾いてからだった。

誰が言い出したのかは分からない。しかし気がつけば、斜面の枯れ草の上に影たちが整列し、順番に前へと出て、己のシルエットを夕日に晒していた。審査員は誰でもなく、山そのものだった。風が吹けば喝采、葉が散れば次の番という、ごく自然な取り決めで。

「誰が最も格好いいシルエットを作れるか選手権」

そらちゃんの影が最初に出た。両腕をゆっくりと広げ、翼を持つ鳥の形を作った。輪郭は正確で、美しく、どこか孤独だった。枯れ葉が三枚、風に運ばれた。

ここちゃんの影が次に出た。両手を頭の上で丸く結び、大輪の花の形を作った。その丸さが夕日の中で揺れて、輪郭がまるで笑っているように見えた。風が少し強く吹いた。

時雨の影が出た。

誰も予想しない姿勢だった。片手を胸に、もう一方を背に回し、あごを上げ、足を揃えた。帽子まで生やしていた。どこから調達したのかは分からない。しかし、その凛々しいシルエットには、確かな意志があった。

「……ナポレオンですね」時雨が呟いた。

「本体より様になっているにゃ」シャミが静かに言った。

周囲の影たちから、葉がいっせいに舞い散った。山の喝采だった。

そして、れおくんの影の番が来た。

影は前に出た。そして――何もしなかった。

夕日の中に、ただのびのびと寝そべった。手足を大の字に広げ、顔を空に向けて、微動だにしない。その徹底した怠惰は、努力の痕跡を一切残さず、しかし誰よりも大きく地面を使っていた。

風が吹いた。強く、長く、山全体を揺らすような風が。

枯れ葉が嵐のように舞い散った。それはこの夕暮れの競技において、最大の喝采だった。

本体のれおくんは、頭を抱えた。「……なんで」

「怠惰は、時に最も正直なシルエットにゃ」シャミが石垣の上から言った。「ポーズをしない者だけが、本当の形を持つにゃ」

「慰めになってない!」

日が沈んだ。

藍色が山を満たし、夕焼けの橙が稜線の向こうへ引いていく。影たちは揃って、深く長い息をついた。それから各々、くるりと向きを変え、それぞれの足元へとするりと滑り込んでいった。まるで最初からそこにいたように。まるで何事もなかったように。

時雨は、足元の影を確かめた。いつもの場所に、いつもの形で、ちゃんとある。しかしその輪郭が、心なしか、帽子のあたりが少しだけ誇らしげに見えた。

「……お帰りなさい」

影は、答えなかった。

ただ、夜風に揺れる木の葉の隙間から、最後の光が一筋だけ差し込み、時雨の影を長く伸ばした。それはまるで、あともう少しだけ、と言っているようだった。

れおくんのため息が、藍色の夜に静かに溶けていった。

「疲れたのは、僕の方だよ……」

シャミだけが、石垣の上で満足そうに目を細めていた。

時雨は手帳を開き、万年筆を走らせた。

――影、集団で剥がれる。理由:飽きた。結論:影にも、意志がある。あるいは――意志こそが、影を作る。

山が夜の衣を羽織り、八国山は静かに、また眠りについた。

アプリンとシャミの相談室

上の一覧から、気になる物語を選んで読んでみてね。紙の奥で、武蔵野の浅い地層が静かに呼吸しているわ。
シャ
ゆっくりしていってにゃ。境界の向こうで、風だけが古い地図をめくるみたいに音を立ててたにゃ。