【前編】
落ち葉というものは、黙って落ちるのが礼儀だと、時雨は思っていた。
しかしこの日の八国山の落ち葉は、明らかに何かを隠していた。風もないのに動く。踏もうとすると避ける。そして時雨の足元だけ、なぜか一枚も積もらない。まるで、道を空けているように。
(……これは自然現象ではなく、誘導だ)
視線を落とした瞬間、シャミがすでにそれを拾い上げていた。
楓の葉、一枚。しかしその葉脈に沿って、何かが刻まれている。細く、しかし迷いのない線で。シャミは静かにそれを読んだ。それから、石の上に座り直し、尾の先だけをゆっくりと揺らして言った。
「笑いながら三度、行きたい場所を叫べ。さすれば風が連れていく、にゃ」
沈黙が落ちた。
「……切符、ですか」時雨が手帳に書き記しながら言った。「葉脈を利用した情報媒体。山の意志が書いたものか、あるいは――かつてここを通った誰かが残したものか」
「どちらでもいいにゃ」シャミが答えた。「試せばわかるにゃ」
「試す前に条件の精査が――」
「試してみよう!」
ここちゃんが言った。この一声が、いつだって世界を動かす。そらちゃんはすでに切符の葉を観察していた。「葉脈の走り方が通常の楓と違う。情報密度が高い。本物だと思う」
れおくんが恐る恐る手を挙げた。「笑いながら、というのは――本当に笑わないといけないの?」
「条件に書いてあるにゃ」シャミが言った。「嘘の笑いでは、おそらく動かないにゃ」
一同の視線が、自然と時雨に集まった。
「……何故、私を見ますか」
「しぐれさんが笑うところ、見たことないから」ここちゃんが言った。
時雨は一拍置いて、視線を切符の葉へ戻した。それから懐を探り、万年筆の蓋を閉め、手帳をしまい、背筋を正した。全員が固唾を飲んだ。
そして時雨は、真顔のまま言った。
「わっはっは」
山が、止まった。
風が止まり、鳥が止まり、落ち葉の最後の一枚が宙で静止した。それから全員が、ほぼ同時に崩れ落ちた。ここちゃんは地面を転げ回り、れおくんは松の幹に額を当てて肩を震わせ、そらちゃんでさえ、口元を押さえながら目が笑っていた。シャミは石の上で品よく俯いた。
「……私の何が、そこまで」
時雨が言うほどに、笑いは大きくなった。笑いが山の斜面を伝い、木の葉を揺らし、地面の落ち葉がざわざわと波打っていく。するとどうだろう。足元の枯れ葉たちが、くるくると渦を巻いて舞い上がり、やがて一枚の大きな葉の絨毯となって、宙にふわりと浮かんだ。
「……推理通り」そらちゃんが呟いた。「本物の笑いに反応するにゃ、と書いてあった。条件を満たした」
「私は笑っていません」時雨が言った。
「周りが笑ったにゃ」シャミが言った。「あなたが呼び水になったにゃ」
絨毯が、待っていた。
【後編】
一行はその上に乗った。
足の裏に触れる楓の絨毯は、思ったより固く、しかし微かに温かかった。まるで何百枚もの葉が協力して、ひとつの意志を持ったように。時雨は膝をつき、その表面を手で確かめた。葉脈が格子状に組み合わさり、互いを支え合っている。これは偶然ではない。意図された構造だった。
「行きたい場所を、三度」シャミが切符の葉を掲げた。「笑いながら、にゃ」
「丘の上へ!」ここちゃんが叫んだ。それだけで充分だった。
絨毯が動いた。
最初はゆっくりと、落ち葉が風に流れるように。しかし笑いが続くほど、速度が増した。ここちゃんがもう一度「丘の上へ!」と叫ぶと、絨毯は木の梢をかすめた。三度目に叫ぶと、もはや目的の丘はずっと下になっていた。
「行き過ぎてる!!」れおくんが叫ぶ。
「止まれ!」と叫べばいいはずが、その叫び声がまた可笑しくて、笑えば笑うほど絨毯は加速した。そらちゃんが淡々と言った。「笑うな、と言っても笑うのが人間の構造」
「あなたは笑っていませんか」時雨が問う。
「……少しだけ」そらちゃんが認めた。それが何故か一番おかしくて、全員がまた笑った。絨毯がさらに速くなった。
シャミだけが静かに、切符の葉を裏返した。
細い線で、もうひとこと書いてあった。「帰りたい場所を、一度だけ、静かに呼べ」
「……皆さん」
シャミの声は低く、しかしよく通った。全員が黙った。笑いが静まり、山の風だけが残った。それから誰ともなく、ゆっくりと息を吸い込んだ。
ここちゃんが、静かに言った。「……お家」
それだけだった。
絨毯は速度を落とした。木の梢が遠ざかり、斜面が近づき、夕日の色が暖かくなった。やがて枯れ草の上に、ほとんど音もなく、絨毯は降り立った。
見慣れた庭先だった。家のすぐ裏の、いつもの場所だった。
ここちゃんが倒れ込みながら笑った。「やっぱり……お家が一番だね」
その言葉に応えるように、切符の葉がかさかさと一度だけ鳴った。それは笑うような音だった。そして葉は、葉脈の刻み字をゆっくりと消しながら、ごく普通の、赤い楓の葉へと戻っていった。
時雨が手を伸ばし、そっと受け取った。もう何も書かれていない。ただ、秋の夕日を受けて、透き通るように赤かった。
「証拠が消えました」れおくんが言った。
「葉が証拠にゃ」シャミが言った。「山から借りた切符が、山の葉に戻っただけにゃ」
そらちゃんが空を見上げた。「もう一度使えると思う?」
「来年の秋に、笑える理由があればにゃ」
時雨は、赤い楓の葉を手帳に挟んだ。万年筆を取り出し、最後に一行だけ書いた。
――切符、楓の葉一枚。条件:笑うこと。帰着地:家。結論:山は、笑いと帰り道を、知っている。
夕暮れが、八国山をゆっくりと藍色に染めていった。
落ち葉たちは、もう静かに積もっていた。何も隠さず、どこへも急がず、ただその場所に、黙って重なり合いながら。
八国山の物語は、まだまだ続きます。
風が変わるたびに、新しい不思議が生まれる場所で。
来年の春、また笑える理由を持って――