「Threads of Japan」というセクションを思いついたとき、頭にあったのは松岡正剛さんの編集工学だった。ご本人が亡くなられてから、あの分野を横断する視点の運び方を、どこかで実地に確かめてみたいとずっと思っていた。理論として読むのと、実際に手を動かして一本の文章に落とし込むのとでは、まったく別の作業になる。今回はそれを、自分のサイトのごく小さな一角で試してみた記録である。

対象に選んだのは、広重・北斎・写楽・歌麿という、これまでうちのサイトでは別々のギャラリーとして扱ってきた四人の絵師だった。それぞれの英語ページはすでにあり、それぞれに導入文もある。だが四人を並べて横に切る視点は、まだどこにも存在していなかった。編集工学が得意とするのは、まさにこの「縦割りにされた情報のあいだに、隠れていた関係を見つけ出す」作業のはずだ。そこで軸として選んだのが「印刷革命と情報の民主化」というテーマだった。錦絵という複製技術が江戸の情報をどう民主化したかを、現代の情報環境と対句的に重ねてみる。松岡さんの名前をそのままセクション名に使うのは避けたが、方法としては彼の手つきを借りるつもりで書いた。

書き始めてすぐにつまずいたのが、四人をどの順番で見せるかだった。いきなり広重・北斎・写楽・歌麿を比較する章から始めると、読者は「なぜこの四人が並んでいるのか」が飲み込めない。そこで先に「狩野派からスクリーンへ」という一章を置き、四人が共通して受け継いだ、ものの見方そのものの歴史を説明することにした。土台を先に作ってから比較に入る——この順番を決める作業こそが編集工学の実質だった。四人の共通点を見つけること自体は、思ったより難しくなかった。難しかったのは、その共通点を読者が迷わず辿れる順番に並べ直すことだった。結果として、導入・構図史・本論・差異の検証・現代への示唆という五章構成に落ち着いた。

もうひとつ格闘したのが、分量と読みやすさとの折り合いだった。編集工学的な書き方には癖があって、放っておくと話がどんどん広がっていく。たとえば写楽について書いていたはずが、気づけば江戸の芝居文化全体の話になり、さらに情報経済の話にまで飛んでしまう——という具合だ。それ自体は面白いのだが、読者が読み切れる分量ではなくなる。だから下書きを作りながら自分に何度も言い聞かせたのは「これは随筆ではなく分析記事だ」という一線だった。話を広げたくなるたびに立ち止まり、「この一文は、印刷革命と情報の民主化という軸に戻ってくるか」と問い直す。戻ってこなければ削る。その繰り返しで、英語版・日本語版とも下書きを最後まで書き切ることができた。

ここまでで確かめられたのは、書く側の実感としてこの手法が無理なく続けられるということだけだ。トーンや分量が本当に狙いどおりだったかは、実際に公開して読者の反応を見るまでわからない。その意味で、今回の検証はまだ半分しか終わっていない。残り半分——読者にちゃんと届くかどうか——は、これから公開して確かめる番だ。

それでも、ひとつだけ先に言えることがある。編集工学というと突飛な発想を連発する技術だと思われがちだが、実際にやってみると、むしろ逆だった。異なる領域を結びつける飛躍そのものより、その飛躍を読者が追える順番に並べ直す作業のほうに、時間の大半を使った。松岡さんが繰り返し語っていた「方法の型」という言葉の意味が、今回はじめて実感としてわかった気がする。

正式にセクション化するかどうかは、このパイロット記事を公開したあとの反応を見て決める。ただ方法そのものについては、少なくとも一度、実地で試して確かめることができた。次にやるべきは、この経験を一回きりの実験で終わらせず、誰が読んでも再現できる手順、つまり「型」として言葉にしておくことだと思う。